さっきご飯食べながら考えてたけど、私は正解の形や完成形が見えるゴールがある仕事をするのが好きだと思う。
例えば、漢文の読みの予習っていうのは、訓読して書き下しして日本語訳を作ったら完成なわけだ。その出来がどうであれ、意味を調べてある程度人前で読み上げられる、ここは違うかもしれないけど自分はこう考えた、と言えれるほどの準備ができれば授業の中では十分だと私は思う。その段階に至れれば「予習は終わった」と思えるのだ。
一方で、研究発表とかは、その発表日以前までの進捗状況を発表するもので、一応の〆切としてその日があるけれども、「いついつまでにこの部分を修正して再提出してね」と言われない限りはゴールがないのだ、終わりがないのだ。もしそういわれていたとしても、多分その修正点+新たな進捗の提示をすべきなのではないかと思う。そして私にとって、研究発表はゴールではなく通過点であって、その通過点をいくつか通って検問されて、大舞台に出る。そしてその大舞台で発表したものをさらに文章化して論文として発表する、それがゴールであるというイメージを持っている。
なあ、ゴール、遠くないか?遠すぎないか?
考えようによっては、各通過点を小さなゴールにしてその終わりに大ゴールを打ち立てる、というのもあるだろうけど、毎週、あるいは隔週で訪れる研究発表や進捗報告は、やはりゴールとは思えない、通過点だろう。
わたしはその通過点がきらいだ。だってみんな通過点だって思ってるから誉めてくれない。わたしは褒められるのが好きだ、もっと頑張ろうと思うし、素直にうれしい。でも研究発表や進捗報告では、指摘することや議論することを主とするから。そもそも研究はたたいて伸ばして高めあうものだろう。それに研究って成果をまとめて出しても誉められることの方が少ないと思う。書評とかは例外かもしれないけど。
毎回、毎週、「次の発表までにはこういうことをまとめておこう、終わらせておこう」と思ったことを予定どおり終わらせることが出来ない。なんでなんだろうな。何もしたくないからかも。家はもう休憩する所って感じになってて、それなら外で勉強しようと思うんだけど、外出るまでが面倒なんだよな。着替えてご飯食べて準備して目的地まで行って、座って道具用意して、、、って荷物も多くなるし、昼ご飯どうしようとか考えたりすると。なんかここまで書いてて、それが面倒なら昔みたいに家で勉強できるようにした方が楽なのかもって思えてきた。家具の配置、今の結構気に入ってるけど変えてみようかな、気分転換に。
どうすれば、計画どおりに勉強を進められるんだろう。もう、何曜日の何時からはこの勉強するってがちがちに決めた方がいいのかな。でもなんか今日・今はこれやりたいなって思ったときは、そのパッションを大事にしたい方だから(結局やらないんだけど、)あんまりそういうの良くないかなって思ったりする。でも予定はがちがちに決めていく方が合ってるっていうのはその通りだと思う。
ただ、そうやって立てた予定を実行できるかどうかが一番重要な鍵で。以前、計画通りに進めたいならば、気分に振り回されないで、とりあえずやってみるっていうのが大切って聞いた。私の場合、何もやりたくない、ずっとお布団に入っていたいってぐずってたとする。上の理論で行くと、そういう負の感情に従わずに、とりあえず起きて、とりあえず机に就いてみるといいってことになる。でも私はとりあえず机に就く、の「机」を家の机ではなくて、別の部屋の机として考えてるから、「とりあえず」の前に、着替えてご飯食べて、顔洗って、、、っていうのが挟まってもっとなんもしたくない、になっちゃうのかな。
こうかんがえるとやっぱ家で勉強できるようなイメージを持たないとだな。どうすりゃいいんだろう。