廃墟です

言語化

 以前、「休みの日に寝っぱなしな人についてどう思うか」と聞かれた。自分のことではなく、他人の事だなんて知ったこっちゃないので、別に自分の時間をどう使おうったってその人自由だから私は何も気にしない、と答えた。

 なんでこのことを言ったかと思うと、今日休日の過ごし方を質問されたからだ。ついでに答えの引き出しが多い、とお褒め頂いた。本当にそうなのか?疑問しかない。引き出しが多かったらもっとひとと会話出来ていると思う。

 以前友達に「いーそんは人間を箱庭の中で観察しているみたいだ」と言われた。あまりに的確で舌を巻いた。確かにそうである。あまりにもそうである。そうすぎてそうとしか言えない。そやつは筆が達者なのである。尊敬している。私は大人数の会話やラインのグループトークで会話に会話できない。慣れていないのだ、会話自体に。ただ相手の顔をじっと、目を見つめている。人のことをじっと見つめて、何をしているのかを観察している。だから私は会話者というよりも観察者的な立場にいるので会話に参加しない質なのである。相手からするとは話しにくいことこの上ないだろう。実際そのような素振りをしているのを目撃したことがある。

 遂にこの間、この質の素を発見した。我が報連相壊滅家では食事の時の会話は皆無なので、虚無の時間を食卓をともにしている人たちを観察しながらご飯を食べるのだ。人と会話をしない質は元来の人見知りが原因なのもあるが、日常的に家庭で会話をしないで過ごしてきた時間が長いことも原因なのではないかと直感的に気づいた。

 今では人見知りではなく、コミュ障であり、かつ本人も話すよりも観察が本業だから会話をしていないことについては時に焦りを感じていない。社会の中の人間としては、一緒に過ごしている人に対してこんなにも薄情な人間の気ままなわがままに遭遇させてしまって申し訳ないという気持ちがないではないが、現在では「まあ、私はこういう人間なので」と見せつけている。大人数での活動や初対面の人への応対では、かなり愛想のいい人間然たることを心がけているので、自分が自分のような人間と相対することになったら超絶怖くて内心おびえているだろう。自分にされて嫌なことはするなと教わらなかったのだろうか、こいつは。

 人間の気持ちがわかるようなわからないような、別に観察しているからと言って人間の感情の機微を読み取るのが得意なわけではない。むしろ人としゃべらないので人間の感情の動きについての情報が乏しいのだと思う。自分の感情を言語化するのもうまくできないのだ。

 言語化、というのが最近の課題である。普段はよく「うあ~~」だとか「んびゃ~~」だとか奇声を発して感情を発露させているのだ。語彙なんかあったもんじゃない。幼少より読書は好きだったけれども、語彙が発達していたわけではなかった。インプットはできていたのかいないのか、よくわからないが、なんせ会話をあまりしなかった気がするのでアウトプットの機会がなく、体に入ったものも定着しなかったのではないか。

 いままで直感的に生きてきたが、最近そうもいかない事態に陥ってきた。言語化できないやつは振り落とされてしまう状況に足を入れざるを得ない状況になってきた。暴れ狂う獅子のような暴風の中でヤシの木にひっつかまって雨上がりを待たねばならないのだ。くそである。しかし止むを得ない。なぜならば人間は社会的動物だからである。カッ~~~~~~

 ここは特訓道場である。敬愛する星野氏の真似である。別にこのブログを始めたきっかけは彼ではなくまた別の方であるが。死したる屍になりかけながら排水溝の金網に詰まって何とか拾い上げてもらうためにも、このブログに後にも記事が投稿されんことを願う。